埼玉県新座市野火止3-1-1に、約十三万坪の境内地を有する金鳳山平林寺がある。直指見性禪師石室善玖和尚の開山にて、臨済宗妙心寺派の末寺である。禪師は京都の天龍寺、鎌倉の円覚寺、建長寺の各大本山にも住山し、日本最初の禅の道場である博多の聖福寺等多数の寺の住職をも歴任されました。平林寺はもと武蔵国騎西郡渋江郷金重村に開創されたが、寛文三年に川越城主松平信綱の本願によって、寺基を現在地に移して今日に及んだもので、草創以来現今まで六百余年の星霜を経過した名刹である。
寺域は、武蔵野の面影が深く残る唯一の所でもあり、野火止用水(別名伊豆殿堀)は平林寺移転に際し、信綱公が武蔵広野十六里の間に玉川用水の分水を引用した潅漑事業にて、石室禪師、大田家、松平家菩提のため、日々の供膳の用水とされ、又一方では古来より焼畑と降雨に依存した武蔵野の旱土を、豊饒の沃土とするための里民救済の大計でした。
堰を開くと寺内にサラサラと清水が流れ、訪れた人々の目を潤します。また全国各地より雲水が参集して、坐禅修行に励む専門道場の姿は、足を一歩境内に踏み入れた人々の身を引き締め、武蔵野の広葉樹林は来る者の心を和らげる。いつまでも残していたい、そんな場所でもある。
戒州、諱は恵錠、安政三年に武蔵国豊島郡小日向水道町の商人、島村利兵衛の二男として生まれた。十歳となた慶応元年の十月五日に、戒州より二歳若い月澗道契と共に、平林寺の圭巌元徹の室に入って剃髪受戒した。翌年に圭巌は席を藍溪玄密に譲って退去隠栖したので、以後は藍溪の撫育を受け成長した。禅寺での行事進退にも慣れた頃の明治八年に、戒州は月澗・周庸と共に諸国遍参の旅に出た。
明治九年四月十四日には名古屋徳源寺僧堂に赴き、滞りなく掛錫を許された旨を藍溪に伝え、月澗・周庸も同錫であることを申し添えた。同年八月には教導職試補となり、藍溪は試補状降下の子細を戒州・月澗の両弟子に書き送っている。翌年六月の制中、配役のことであろうか、戒州は堂内に、月澗は隠侍に配役されたとし、当解の大衆は五十人程で、老師の提唱は碧巖録であるなど、徳源僧堂の模様を本師藍溪に知らせ旁々無異を伝えて安心を請うた。
明治十一年の正月現在でも戒州は徳源僧堂にあり、五日より臘八の接心に入ることを伝え、月澗・周庸は錫を移して天竜寺僧堂に掛錫したことも申し添えた。その後明治十四年頃には瑞應寺の僧堂にあった。この頃か、健康を害して病臥に伏したりした が、各地を巡り雲水の行脚生活に明け暮れ、再び徳源僧堂に帰錫した。
戒州は極めて几帳面な性格で、時には藍溪の用命を忠実に果たし、年頭・季節の変わり目には問候の書状を差し出して師恩に酬いるなど、繊細な神経の持ち主と見える。僧堂での修行が一段落すると、南条文雄の大谷教校に赴いて英語・梵語などを学んだが、明治二十年十一月には妙心寺に登って転位した。のち東京深川の陽岳寺の住職となった。 その頃、陽岳寺に近いS寺(現在隅田区)は紛争がつづき、とうとう公売に処せらるることになっていた。妙心寺はこれを重視して、前任の住職を罷免し、後任は法類の評定によって決定することにした。法類は挙げて戒州を推薦したので、戒州はS寺の難題を引き受けざるを得ず、好むと好まざるとに拘わらず火中の栗を拾う羽目となり、S寺の兼務住職を引き受けることとなった。このために普通学校(陽岳寺史よりみれば、当時の明治小学校前身深川閭校と関係があるか不明)を経営して八十余名を超える生徒を抱えていたが、止むを得ず廃校とし、裁判所に通うこと通算六年、不眠不休の奔走の結果、示談が成立してこの問題は落着した。裁判費用は千四百五十円余となり、檀家に負担させることも出来ず、戒州名義の借用証書だけが残った。
この頃の平林寺史は、明治二十四年一月に藍溪が示寂し、金銭問題のこじれで住持が決まらぬままになっていたが、後住の推挙を受けた玉円が明治二十六年十月初め住職となた。しかしながら明治二十八年十二月末頃に風を煩って平臥し、容体は日増しに悪化し、明治二十九年一月二十七日に、平林寺現住の玉円楚璞が示寂した。藍溪の門弟達は急遽集会して後住の人選をなしたが定まらず、互いに譲りあって決定することはなかった。
このように他薦を繰り返して決定しない理由には、平林寺内部に大きな問題を含んでいたからに外ならない。玉円臥床中の金銭問題のこじれからの乱脈経理問題・小作農問題が重荷となっていた。玉円の密葬・本葬の日取りも決まらない状態に焦った法眷達は、ついに選挙によって決定することにし、開票の結果、戒州恵錠が当選した。
ところが世話人達の中に、法類達のみで後住を決定するのは納得しないと反対する者がでて、世話人達の間で、戒州にとって法兄である法雲寺令易派と陽岳寺戒州派の真二つに分かれ、本山の裁許を仰ぐことになった。妙心寺の内意は令易の後任なら許容しがたいといい、特命を以て別人を任命する構えを見せた。平林寺徒弟の間でも、令易の後住なら分散願いたいとの希望であった。
戒州は神経濃やかで潔癖なまでの性格から、平林寺の現状と今後の問題、自坊の後任、S寺の残金返済等を考え合わせると、神経は高ぶり極度の衰弱となり、S寺にて臥床した。埼玉入間郡T寺和尚、東駒形T寺和尚が訪れ、懇々と平林寺晋住を説諭し切望した。これとは別に平林寺檀徒の某氏は妙心寺に事の有り様を注進したので、特使として静岡臨濟寺の今川貞山が派遣された。戒州の履歴等を調査し、適任であれば復興の新綱目に対する誓約書の提出を求められた。戒州は再び火中の栗を拾わされる運命を負わされた。かくして玉円の寂後、一年二ケ月経過した明治三十年三月、陽岳寺の後任に幼い清川恵廉を修行円熟の暁には正式に住職とすることを条件に、一方S寺の不適当ながら栄信据え借財は戒州の責任において完済することを条件に、平林寺の正常化を目指して晋住した。
晋住した戒州の功績は現在の平林寺の基礎を作ると云っても過言ではない。諸寮規則を定めて寺努勉励を説き、什物の管理、小僧等の溜め夜学校を設け佛祖三経を講義して僧徒の本分を説き。加えて住職名義の動産・不動産の平林寺名義書き換え断行。
この問題に関しては、平林寺財産が藍溪から玉円えと住職による売買相続の形で行われていたことに加え、玉円名義の不動産が臥床中に窪田義泰が後見人になって、弟子祖髄=俗名江崎栄重郎の名義に書き改められていて、戒州の買い取りを要求していたことによる。明治三一年から翌年にかけて義泰と折衝したと記録にある。
法眷衆の無協力に戒州は一時什物法衣等を整理封印し平林寺住職の辞退書を送付して、東京日生館に滞在、以後平林寺問題で意見を求めることはしなかった。この間、法眷の或者は他の老師に名義蚤の兼務を願い、内事は法眷の手で維持運営したが、反ってその不得策を戒められて途方に暮れた。この頃になると大檀那大河内三屋敷の知る所となり慰留して改革を断行することを戒州に懇願した。
戒州は一旦辞退を決意し口外した以上、現職に止どまることをせず、後住が決定され次第、補佐役として改革に力を尽くすことを約し、 そのためには、是非栄重郎名義を平林寺名義に改めることを第一条件とした。
久し振りに戒州は平林寺に帰単する。本師藍溪和尚の時代に、無学老師や伽山老師に、境内に僧堂の開単を進められていたことを思い、適当な後任が決定され次第、戒州は引退し、会計を本坊と僧堂に分けて運営することを決意した。しばらくして湯島麟松院和尚より人選の返事が到来した。岡山曹源寺儀山善来を剃髪の師とし、京都相国寺越溪守謙の法嗣鉄牛祖印である。明治三二年三月のことである。
住職交代の手続きを終え、鉄牛は四月頃平林寺に居を移す。ところが五月十五日を境にして鉄牛は病臥に付してしまった。七月一日後事を託し二日示寂してしまった。鉄牛の遺言は曹源寺暘谷老師だったが、暘谷より不可能との返書に再び平林寺は自薦他薦の混乱へ突入する。
戒州は鉄牛を拜請し、そして帰寂至らしめたことを反省し、また法眷衆が戒州が平林寺にいる以上寄り付かないことを思い、山内を封印し、療養と称して野火止よりの退去を決意した。退去隠棲の場所は定かではない。戒州のもとに入間郡T寺和尚が来訪し、平常かを目指すには法眷衆と和解して加担を願う外なしと説諭。法眷衆は、大檀那大河内家の依頼なき時は加担できないとの返答に、やむなく大河内氏が加担依頼状を発信した。無為に一年が過ぎた。
明治三十三年になって、谷中の頤神和尚・是照和尚が戒州の庵室を訪れ、鎌倉円覚寺釈宗演老師法嗣大休宗悦を後住に拜請する旨の会合をもった。戒州は意義なく歓迎し、万事取り計らいを両和尚依頼した。明治三十四年四月、大休は期待されて野火止に居を移した。戒州は寺努引き渡しのため両三度平林寺に登山し、引継事務の完了と共に戒州の役目は終了した。
時に四十六才であったという。以後平林寺史から戒州の名は消え示寂の場所・年月などは不詳とある。
以来戒州は、還俗し、今自坊であった陽岳寺の墓処に眠っている。
法名 臥龍庵戒州恵錠禪者 没年明治四十四年十一月二十六日