明治小学校と陽岳寺

江戸時代における.般庶民の教育は、幕府のこれといってなす機関はなくただ所在の有識者の間に家業として私塾・寺小屋を営み 近在の予供達を教えていた程度のものが有ったに過ぎなく、そこで教えられているものも「往米物一と呼ばれる教訓・社会・消息・地理・歴史などでありました。誰でもが教育を受けたかというとやはり貧富の違いにより、誰でもというわけにはいかなかったようです。

慶長十七年江戸で不良少年逸兵衛組などが徒党を結んで時人を悩まし、承応二年旗本の少年達が風呂屋に出入りして、湯女どもを集めて淫行はなはだしく市人と争論を構える(社会事業研究所編 社会事業大年表)等、いつの時代も変わらぬもので、それにたいして「子を養つて教えざるは親のあやまり」(歌麿 教訓親の目鑑)と大人達は警笛をならすのです。

それでは子供達がどのような遊びをしていたかというと、シャボン玉、いろはかるた、天神様の細道、芋虫ゴロゴロ、「向かいのおばさん茶を飲みにちょつとおいでー鬼がこわくてゆかれません」などと節をつけて歌う鬼ごっこ、独楽・ベイゴマまわし花火、あぶり出し、双六などで今では懐かしい遊びでした。そしてこの時代の子供達の仕事と言えば、子守か奉公だったのでしょう。

明治維新はそんな東の小さな島国を、大きな世界へとひっぱりだすことになりました。たくさんの新しい改革がなされたわけですが、その中でも初等教育への力の入れようは大きかったようです。明治五年学制の頒布があり、はじめて一般庶民に教育の道が開かれたのです。

「身を立て産を治めその生を遂ぐるには、智を修め技に長ぜねばならぬ。而もそれが為に学校を設けられたのは年久しいことではあるが、而もその方法宜しきを得ざる為、孤り士人のみの専有物となり農、工、商の子弟は全くこれから除外されるの状態を続けて来た。そこで今改めて学制を頒つのは、これを以て郷に不学の戸なく、家に不学のへなからしむると同時に、従米の学事を官に託して顧みざるの弊を改め、皆この事に従事せんことを期す』学制(主旨)

これより二年前の明治三年十二月陽岳寺内に儒者村松為渓が当時深川の名望家高部文右衛門、竹尾新助、鹿島清左衛門、鹿島清四郎、宮島儀右衛問、橋本喜助各氏の後援をえて明々堂(明治校沿革史には、村松為渓・深川閻校とある)と称す寺小屋をはじめました。

これが明治小学校の起源であり、当時教師四人児童男七十人・女五十人を収容していたといわれています。そして学制頒布の五年、江東区(当時深川区)最初の公立小学校となりました。明治九年陽岳寺より現在地に、明治十年十月(明治校沿革史には、明治十五年とある)明治尋常小学校と名を改めました。

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