二世 錐翁慧勤

「請う其の本を努めよ」この言葉は、臨済宗妙心寺派の寺々にあっては、仏像や掛け軸、境内や建物に勝るものです。この言葉に変わって努めなければならないことは、「慧玄が這裏(しゃり)に生死なし」「柏樹子(はくじゅし)の話に賊機あり」という言葉の意味を理解し、実参し、究める努力をすることといえます。

何故なら、全国に散らばる妙心寺派寺院をたばねる、妙心寺開山和尚関山(かんざん)慧玄禅師の、唯一残された言葉だからです。不思議なことです。これしかないのです。もっとも花園上皇の記されたものは現存していますが。そして、足跡として残る寺は、本山の妙心寺と京都大徳寺、そして、伊深の正眼寺(しょうげんじ)です。
関山慧玄禅師は、歴代の天皇から諡(おくりな)を頂いております。「本有円成国師」「仏心覚照国師」「大定聖応国師」「光徳勝妙国師」「自性天真国師」「放無量光国師」、そして明治42年に、明治天皇より「無相大師」の大師号を賜りました。
その名は「本有円成仏心覚照大定聖応光徳勝妙自性天真放無量光無相大師」と言います。

慧玄の名は本師である、大徳寺宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう:大燈国師)から改名して頂いたものです。ちなみに、妙心寺派では、この宗という呼び名を、“しゅうほう”をはばかり、“そう”と呼ぶことにしています。この年が、嘉歴4年(1329年)で、無相大師が大悟したときと、歴史は伝えています。

その翌年5月、今の岐阜県、当時の美濃伊深の山里に、それは都から見れば隠れ住むかのように見えますが、無相大師にとっては、山里では名前を隠すもなく、旅の途中の僧侶として住み着き、夜は坐禅石で坐禅をし、昼は、木こりの伐採の手伝やら、牛の手綱を取っての畑の耕し、種まきや収穫の手伝い、道路の普請を手伝うことで、山里の人々から慕われて日々を過ごしていたと思われます。これは、よくいう悟後の修行に習って、修行臭さを払っていたともいえます。
伊深の里の風や雪の冬、庵には、雨雪をしのぐ蓑がさに、割れ鍋、水桶しかなかったといいます。

思うに、破れ衣で僧の姿をしていても、風評が伝わらなければ、山里の人々は理解しないものです。今の時代でも、自分で自分を宣伝しなければ、他人は人を認めないに似ています。もっとも自分を宣伝しても、後がついてゆかなければ、名前倒れになることは世の常でしょうが。悟後の修行とは、口で言うほど易しいことではなく、徹底した寡黙の修練と言えるかもしれません。

この頃、後醍醐天皇と花園上皇に親しく法を説いていた大燈国師が、延元2年(1337年)に病気で亡くなりました。国師に代わる者として、無相大師が推挙されました。上皇の使いは、歴応元年(1338年)伊深の里に隠れ住んでいる無相大師を探し、辞退する大師を説得して、改装した花園の離宮を正法山妙心寺開山禅師として迎えたのでした。
しかし、無相大師は、再び行脚することになります。何年間妙心寺に住持としていたのか、いつ頃行脚に出たのか消息はわかりませんが、貞和3年(1347年)7月22日に花園上皇は、大師に手紙をしたためます。これが妙心寺に現存する花園法皇御宸翰です。この間に行脚する消息を、五条の橋にて蓑(みの)を覆って乞食する墨跡が象徴として表されています。

そして、観応2年(1351年)妙心寺再住の院宣が降りて、妙心寺に再び戻ったのでした。これ以降、9年間は、妙心寺にて後輩の指導を、質素そのもので専念したのでした。「請う其の本を努めよ」と、身を引き締めて生涯にわたって通した大師の発した言葉が。「慧玄が這裏(しゃり)に生死なし」「柏樹子(はくじゅし)の話に賊機あり」です。
延文5年(1360)12月12日、妙心寺境内にある風水泉(ふうすいせん)の前で弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に最後の法を説いた後、行脚姿で立ったまま亡くなったと伝えられています。世寿84歳でした。

さて、延元2年(1337年)5月に伊深の里を去って、この山里はどうなったのでしょうか。
寛永元年(1624)、それは、無相大師がこの地を去ってから、286年の月日がたっています。錐翁慧勤(すいおうえぎん)和尚が亡くなる、63年前のことです。亡くなった場所と日にちは、江戸は深川の陽岳寺、貞享4(1687)年2月20日のことでした。しかし、63年前に、現正眼寺の山里に草庵を結んだことに、世代につながる者としては詳しく知りたく思うのです。錐翁も無相大師を慕って、この山里に一人、請う其の本を努めよと、質素にして大師と同じような暮らしをしたのではないか、そんな想像をしてみたくなるのです。やがて、錐翁は、多分、三崎を通って、深川に行脚し、陽岳寺に逗留するのだと思います。この錐翁には、芭蕉の師匠の仏頂禅師が参禅したと伝えられています。

陽岳寺の開基は、向井左近将監源忠勝です。忠勝は、寛永14年(1637年)に三浦三崎の見桃寺和尚、文室祖郁を住職に迎えて陽岳寺の建立をいたしました。そして、次の住持に、錐翁を押したのです。文室が亡くなった日は、正徳3年(1713年)年10月19日で、錐翁は貞享4(1687)年2月20日です。
しかし、妙心寺に届けられた陽岳寺の法脈の源は、日暮里の南泉寺にあります。その流れは、大愚宗築(寛文9年(1669年没)-江巌祖吸(宝永2年【1705年】閏4月8日没)と連なるもので、文室と錐翁が妙心寺派の僧籍がなかったことから、文室を創建和尚、江巌を開山和尚、錐翁を二世としたのでしょう。
正眼寺は、その後、万治元年(1658年)関山牧牛の霊跡に大極和尚が領主佐藤駿河守吉次の外護を得て芽屋を建て、寛文11年(1671年)6月12日、国師の御彫像を塔中に奉安して妙法山正眼寺とし、弘化四年(1847年)には真如明覚禅師雪潭大和尚が本山の命により当寺を妙心寺派の専門道場として開単したのでした。
平成17年、妙法山正眼寺は開創650年を迎えました。

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